学校の歌ができるまで(セールスガラス)

管理者養成学校 校歌
・詞 財部一朗
・曲 元橋康男

昭和49年、研修用、動画フィルム教材、『セールス志願』を制作発売した。シナリオを書いた財部は主題歌、「セールス無情」の詩を書いた。シナリオも詩も、初めての体験だった。
曲は元橋がつけた。演歌風の曲を書くのは、元橋も初めてだった。こうして、財部、元橋という詞、曲のコンビが誕生した。
セールス研修フィルムは、四時間に及ぶ本格的教材として注目された。が、第一次オイルショックと不況に翻弄され、営業は失敗した。

昭和53年、東京の郊外、日野市の民家・青竹庵で、財部は研修コースの開発にあけくれていた。
その頃『セールス無情』作詞の余熱があって、十数篇の詩が生まれた。そのうち4、5本が元橋の手で曲が付けられ、第一作が『セールスガラス』であった。財部の若き営業の頃、地方都市のデパートの屋上から街を眺めた体験をもとに、詩は書かれた。

昭和53年秋のある夜、元橋は作曲した『セールスガラス』の譜面を持って、新橋の事務所を出た。青竹庵で、十畳の座敷で待ち受ける研究員の前で、元橋は出来たての歌を歌った。
その時の財部の印象は「こんなものかな」というものだった。簡潔だが力強い詩に対し、それに相応しい曲がついた、という程度の感想であった。
この歌が以後二十数年、毎日、歌われしかもあきることがない・・・、など、想像もしていなかった。…が、「遊び」で作られた歌は社員の間でしばらく歌われ、すぐに忘れられた。

この歌は、間もなく思いがけない形で、役に立つことになる・・・。青竹庵で財部達は人間の行動を阻害する要因と、これを克服する方法を研究していた。青竹庵に近く、京王線、聖跡桜ヶ丘という特急、停車駅がある。
ある朝8時、一人の若い研究員がガランとした下りホームに立った。反対側のホームは、新宿へ向う乗客であふれていた。乗客の中に財部が居た。彼は興奮し、下痢気味だった。
若い男は乗客に震えながら一礼し、やがて『セールスガラス』を歌い出した。笑う人、囁く人、目をそらす人。それは、やはり異様な光景だった。

昭和54年6月、千葉県館山市で管理者養成学校が、合宿方式で第一回目の研修を行った。この時から『セールスガラス』は基礎コースの訓練歌となる。JR内房線館山駅で、駅頭歌唱訓練として、人々の前で歌われた。
聖跡桜ヶ丘駅で、研究員一号が歌った時、『学校』は・・・財部の頭脳に片鱗も無かった。

この歌が第一興商とBe MAX’Sに収められた。今年2月、財部はスナックのカラオケでこの曲にめぐり合い、歌った。以来、スナックでは必ず2度、リクエストする。
「私が作詞したんです」威張る。しかし好評で、学校の訓練歌とも知らず、客も歌ってくれる。スナックで歌って、財部はこの歌の大きさに気付いた。

(以上、筆:財部)

昭和五十三年、財部により十数編の詩を預かった。何曲か作曲したうちの一つに「セールスガラス」があった。この頃、財部は詩に凝り、社員からも詩を集め詩集を作っていた。
“額に汗してつくったものは 額に汗して売らねばならぬ”

この詞を読んだ時、すでにこの詞そのものが歌になっている!と感じた。前記の「セールス無情」は演歌そのものであったが、「セールスガラス」は詞は演歌風だが、現代を生きるビジネスマンへの暖かい共感を示すもので、人生の応援歌であろうと考えた。

ある日、曲作りにかかった。詞のイントネーションに従って曲想を素直にイメージしていくと、何と、するするとメロディーが沸き、一気に曲を書き上げる事が出来た。この詞には歌がある、何か不思議に魅きつけられたものがあった。

曲は三連音符「ひたいにーあせしてー」をモチーフとして作曲した。曲はロックバラード風に仕上がってくれた。これが新ジャンル、eビジネス演歌とでも言うのだろうか・・・。

昭和五十四年、学校がスタートした時、このセールスガラスが訓練歌となった。歌って涙、聞いて涙、不思議な、そして厳しい歌でもある。

ある時、青竹庵の財部より電話があって「セールスガラスを本職の歌手に歌って貰おう」という提案があった。元橋は即座に賛成し、すぐに歌手さがしが始まった。

何人かの歌手が浮かんで消えた。その中に元橋の友人、姫野氏(テレビ朝日・プロデューサー)の紹介を得て三鷹淳との出逢いとなった。三鷹は国立音大を卒 業し、コロンビアレコード専属となり、故藤山一郎と同じタイプの歌手として活躍していた。特に「霧よ雲よ峰よ」、巨人軍の歌「闘魂こめて」は有名。

昭和五十四年の秋、テレビ朝日のスタジオで、「セールスガラス」のレコーディングが行われた。オーケストラの伴奏で、元橋が指揮の棒を振った。豊かな声質と表現のおおきさに、元橋は満足していた。

病身の財部はスタジオ入りしなかった。後日、送られてきたカセットを聞いて、魂が入ったと彼は思った。これが財部作詞、元橋作曲、歌、三鷹淳のコンビの始まりである。

“涙を流してつくったものは 涙を流して売るものさ”
歌って涙、聞いて涙、情熱が沸き、闘志が沸く、不思議なそして厳しい歌である。駅頭歌唱訓練で足が震え、歌唱審査で胸が高鳴り、「地獄の訓練」でこれほど印象的な体験はなかったと・・・。修了生は皆、身体にしみついているのが「セールスガラス」である。

毎日、朝礼で歌っている会社がたくさんあると聞いている。今は、カラオケボックスやスナックでも歌えるので、全国各地で「セールスガラス、歌ってます!」と耳にすることが多くなった。

「天に届いたセールスガラス」

当校教師、田代は昭和五十六年九月一日コースで担当した金子健一氏(大阪、紳士服販売業より参加)が、その四年後、不治の病に倒れ、他界された事を知っ た。訓練中の金子氏は夜間行進の指揮官を務めるほどの優秀な訓練生で、終了後、仕事においてもメキメキ業績を上げ、取締役営業部長になったと聞いて喜んだものだ。

その後、訃報を知り、早速お墓参りをしたい旨を依頼、快く承諾を得て、生駒山、山中にある墓地に向かった。車中、奥様から金子氏の経過を伺う事が出来た。

病名は「骨肉腫」。即入院、余命三ヶ月。日に日に痛みは全身に広がり、寝返りを打つとボキボキと骨が折れるようになり、寝返りも出来ない状態となっていた。奥様は、日々苦痛の増す彼をどう励ませばよいか・・・、と悩み考えていた。

彼が当校の訓練を終了して家に帰って来てからというもの、二人の息子さん(当時二十歳、二十四歳)に“セールスガラス”を歌って聞かせていた事を思い出した。「仕事がうまくいかないとき、この歌を歌って自分を奮いたたせている」とよく云っていた。

奥様は彼を励ますのはこの歌だと思った。その為に自分も歌えるように、テープを何度も聞いて練習し、彼の声が出るうちに録音しておきたい。訓練でみについているセールスガラスなら歌えるはずだ・・・と。

痛みのあまり僅かしか動けない状況の中、奥様が耳元で囁くように「ひたいにー、あせしてー」とリードすると、微かに口を動かし「ひたいにー、あせしてー」とかすれた声で歌いはじめた。命を振り絞って歌う声をテープに収めることが出来た。奥様は静かに話してくれた。

田代は墓地に着き、焼香の後、「彼にセールスガラスを贈りたい」と申し出、東の空に向かって歌った。涙が止まらず、一番を歌うのが精一杯だった・・・。

「天に届いたセールスガラスありがとうございました」奥様から丁重な礼状が届いた。

  • “数字が半分たりない時は 数字の二倍をやらねばならぬ”

営業に携わる者にとって身に沁みる歌詞である。

  • “人に遅れをとりたる時は 人の二倍を歩くのさ”

まさしくビジネスマンにとって愛情豊かな応援歌なのである。様々なシーンで歌われ、その都度、新たな勇気が湧き上がる、そんな歌でもある。

セールスガラスには数々のエピソードがある。下記の話は当社スタッフが、訪問先の社長から聞いた話である。

社長は「剣道の試合を観戦していたらこんなシーンに出会った」と語ってくれた。

「我が子へのエール」

九州博多で開催される「玉龍旗全国高校剣道大会」は、大正五年から八十六年の歴史を持つ伝統の大会である。
全国から六千名の高校生が参加し、毎年七月二十五日から五日間、熱い戦いが繰り広げられる。

五年前、玉龍旗全国高校剣道大会、決勝日のことである。二千名の観客席から、一人立ち上がった男がいた。
大きく野太い声で「額に汗して~」とゆっくり歌 い始めた。目には涙を溢れさせ、一生懸命に丁寧に、そして力強く。まるで息子の真剣な戦いに想いを乗せるように。「この街並みで男の舞いを舞ってみよ~」

忙しい父親が仕事の合間を縫って全国大会の会場に駆けつけた。息子は、今まさに真剣勝負に挑もうと間合いを計っている。
目の前の敵に持てる全ての力を集中し、全身全霊をこめて、立ち向かおうとしていた。一瞬の静寂・・・、気合の一声が会場に響き渡る。

その時、父親は顔面をクシャクシャにしながら、人目も気にせず真剣に歌っていた。その姿に、聴衆のほとんどの目が注がれ、会場は静まり返った。息子に父親の魂が乗り移ったのか、歌い終わるとほぼ時を同じくして息子の一本勝ちが決まった。

「義彦よくやった!」父親の大きな声が響きわたった。この瞬間、会場から大きな拍手が沸き起こった。父親は会場の隅々に何度も何度も深く頭をたれ、姿勢を 正した。その時、向側の観客席から一人の男性が同様に立ち上がり、この親子を祝福するように「額に汗して作ったものは 額に汗して売らねばならぬ」と 「セールスガラス」を歌い始めた。

「あの歌はあんたん所の訓練歌やろ。土壇場を経験した人間はいいもんや。あの父親の気持はようわかる。
うちの息子も、今でこそ逞しく育っているが、ヨチヨ チ歩きの頃から病気がちで、幾度と無く夜中に救急病院に車を走らせたな。夜なべをして看病し、口には出せんが、かみさん共々疲労困憊した時の思い出が頭をめぐるな。本当の教育とはこういうもんやろうなあ。私も一度は管理者養成学校、行かなあかんやろな」と社長がしんみりと語ってくれました。

観客席での「セールスガラス」による応援合戦。やるものだなと、この話を聞き、胸が熱くなった。
子も親も真剣勝負である。

(以上、筆・元橋)