学校の歌ができるまで(ああ夜間行進)

ああ夜間行進
・詞 財部一朗
・曲 元橋康男

【軍用リュックと軍用水筒】

地獄の訓練がスタートして間もない昭和五十四年夏、日野市の青竹庵で財部は若い助手の帰りを待っていた。
暑い中、やがて助手が秋葉原から米軍払い下げの 軍用リュック、軍用水筒、戦闘帽を買ってきた。丈夫な生地、頑丈な作り、リュック・水筒はグッドデザインで彼は満足した。帽子はサンプルの中から、ドイツ空軍の戦闘帽を選んだ。

訓練に夜間行進を行う計画は、初めからあった。これらの装備は行進用のものだった。白い訓練服に草色の装備を着けると、絵になった。何事も徹底するとい うのが財部の主義だった。歩く距離は四十キロとした。これも、半端では ない。例の助手が千葉県館山市に飛び、四十キロのコース、チェック・ポイントを設定 し、略図を作った。こうして夜 間行進の準備は進んだ。

たぶん九月か十月頃、初めて夜間行進がフルメタル・ジャケット(完全軍装)で行われた。

【稚拙な表現、不思議な韻】

昭和五十五年、静岡県富士宮の青木分校に移転した頃より、訓練生が増加した。夜間行進は初め二十キロ二人組みと四十キロ一班の二回行われ、訓練生には強 烈な体験となり、ドラマが生まれた。学校を出発するや、いきなり反対方向に歩き出す二人組みを財部は目撃している・・・。

夜間行進の歌が欲しいという要望があり、作詞の財部の課題となっていた。昭和五十五年秋頃、研修生の報告書を読んでいて、財部はある箇所で目を止めた。 稚拙な表現だが、この研修生の文章は不思議な韻を含み、次の記述があった。「懐中電灯握りしめ、行くぞ俺達二人組み」「頼りにならない足踏んで、行くぞ俺 達十四人」これで詩は出来たと、彼は直感した。

【蛍舞う 闇をかき分け】

詩のヒントは訓練生の報告書にある。夜間、山中をさまよう人たちが、こんなことになんの意味があるのかという疑問や怒りを感じたと、手記に書く。そのまま、詩にとり入れた。

行進は四季行われ、詩に四季を入れるべきと財部は思った。春、山の中の学校へ登る急坂の林に、山櫻の花を見ていた。秋、道に迷ったチームの捜索で、風に 吹かれる真夜中のすすき野は、忘れ得ぬ風景である。富士は常に傍にあり、彼は蛍を見ていないが、「蛍舞う 闇をかき分け」という言葉を得て、詩は作曲に託された。

この頃、テレビや週刊誌のマスコミが学校を取材し、四十キロに苦しむ人やフルメタル・ジャケットは、奇妙な現実感でテレビや報道写真の絵となり、財部は苦笑していた。

(以上、筆:財部)

管理者養成基礎コース(地獄の訓練)を体験した者にとって訓練七日目に行われる最大イベント四十キロ夜間行進を忘れている者はなく強烈な印象となって残っている。

“今日は訓練七日目、あの「夜間行進」訓練の日だ・・・。いよいよか・・・、完歩出来るだろうか・・・、どんな道を・・・、どんな場所を・・・、真っ暗な夜道、大丈夫だろうか・・・。”出発前の不安と緊張が脳裏をかすめる。

  • “あてにならない 地図渡されて 行くぞ地獄の二人連れ”

昭和五十四年六月千葉県館山で管理者養成学校が開校され、秋十月頃に夜間行進が行われた。当初は二人一組での二十キロと一班十余人での四十キロと十三日 間のうち二回行われていた。昭和五十五年の秋頃に「夜間行進」に歌がほしいの声があり、財部が作詞した。一番・二番は二十キロ、三番・四番を四十キロの内 容で書かれていた。

  • “頼りにならない 足踏みしめて 行くぞ地獄の十余人”

七七七五調で書かれている韻文詞であった。言葉の運びにリズムが感じとれる作曲しやすい詞であった。
行進の歌なので明るく元気な曲を・・・と想像しなが ら詞を読んだ。
しかし読む程に自分の想像していた明るさ楽しさは消し飛ばされ夜道を必死に歩き廻る訓練生の姿が痛いほど感じとれるものとなっていた。

体力の限界、仲間の応援、友情、そして人間同志の愛情が強く伝わってきて、曲調は自然と長調(明るい調子)でなく短調(ラの音が主音)での流れとなり、 やや暗く、哀愁を帯びた人間の心情が感じ合えるものとした。
しかし、その中にも力強く一歩一歩前進出来る行進のリズムに乗せて作曲したものである。

詞の内容は訓練生の現実の姿そのものであって、つらく厳しいものであるが、詞の後半にある「春」は山桜・・・、「夏」は蛍、「秋」は風にゆれるすすき野 であり、「冬」、真っ白な富士、作詞の財部の見事な四季の情景描写によって厳しさから救われる思いで曲想がまとまり、完成を見たものである。

「ああ夜間行進」の歌が自分自身に勇気を与え、仲間を励まし、班友十余人の心の支えとなって感動につながる要因となっているものである。

今日も又、“凍える体に足引きずって、さまよい歩く獣道”・・・遠く歌声が聞こえてくる。

(以上、筆:元橋)